上杉景勝公が会津から米沢に移ったのは慶長六年(1601年)です。多くの将士が越後から会津・米沢と従ってきました。
その一人高梨外記介頼真(高梨家二十三代で当寺開基檀徒)は旧木場町(現在の松原寺の地)に屋敷を構えました。
外記介はその翌年に藩公の命により領内の小国方面を巡視することになるのですが、そのとき伝説が今でも残っています。
『松原寺伝説』
~外記介が前夜に見た夢~
それは端正なお顔立ちの観世音菩薩様が出現され、
「われは清水の観音である。そなたの為に良き師を授けてやろう。明朝北の方をさして行く途中、松原の中で一人の僧に逢うだろう。そなたの屋敷の東北部がわが鎮座する霊地である。その僧を連れ帰り、そこに寺院を建てるがよい」と厳かに言われ、ハッと平伏した途端に目が覚めた。
翌朝、従者を連れて手の子村(現在の飯豊町手ノ子松原)にさしかかると松林があり、その中ほどに前夜は夢の通り一人の旅僧が道端の石に腰掛けて休んでいたので、前夜の夢の一部始終を語って深く懇請をした。
その僧は鳳台院(茨城県笠間市)第六世の梵白大和尚といい諸国を行脚していた途中であったが、その願いを入れて承諾した。
外記介は主命を果たす迄、小松村(今の川西町小松)で待ってもらい帰途共々に同行し霊夢の如く、寺院を造営し梵白大和尚を開山に迎えた。時に慶長七年であったという。
尚、笈に納めて行脚中背負って歩いた観音像(画像現物:高さ三十センチ、木像)を、初めは高梨家屋敷内に祭られてあったのを、譲り受けて祭ったところ、その霊力(火伏せに幾多の霊験があったという)近隣にきこえて信仰の善男女、日についで参拝多数があった。
越えて天明二年(1782年)、町内守護安全の意より、番正町、成島町、木場町等近隣は勿論、遠くは南新町、矢来町、信夫町等十七ヶ町内よりの浄財の拠出に依り、御堂を建立。その後も数回の改築を重ねたとはいえ、以来230年間松原寺の歴史を御見守りくださっている。
尚、当松原寺観音様は米沢三十三観音 三十一番札所として、地域の人々の信仰パワースポットとなっています。
その一人高梨外記介頼真(高梨家二十三代で当寺開基檀徒)は旧木場町(現在の松原寺の地)に屋敷を構えました。
外記介はその翌年に藩公の命により領内の小国方面を巡視することになるのですが、そのとき伝説が今でも残っています。
『松原寺伝説』
~外記介が前夜に見た夢~
それは端正なお顔立ちの観世音菩薩様が出現され、
「われは清水の観音である。そなたの為に良き師を授けてやろう。明朝北の方をさして行く途中、松原の中で一人の僧に逢うだろう。そなたの屋敷の東北部がわが鎮座する霊地である。その僧を連れ帰り、そこに寺院を建てるがよい」と厳かに言われ、ハッと平伏した途端に目が覚めた。
翌朝、従者を連れて手の子村(現在の飯豊町手ノ子松原)にさしかかると松林があり、その中ほどに前夜は夢の通り一人の旅僧が道端の石に腰掛けて休んでいたので、前夜の夢の一部始終を語って深く懇請をした。
その僧は鳳台院(茨城県笠間市)第六世の梵白大和尚といい諸国を行脚していた途中であったが、その願いを入れて承諾した。
外記介は主命を果たす迄、小松村(今の川西町小松)で待ってもらい帰途共々に同行し霊夢の如く、寺院を造営し梵白大和尚を開山に迎えた。時に慶長七年であったという。
尚、笈に納めて行脚中背負って歩いた観音像(画像現物:高さ三十センチ、木像)を、初めは高梨家屋敷内に祭られてあったのを、譲り受けて祭ったところ、その霊力(火伏せに幾多の霊験があったという)近隣にきこえて信仰の善男女、日についで参拝多数があった。
越えて天明二年(1782年)、町内守護安全の意より、番正町、成島町、木場町等近隣は勿論、遠くは南新町、矢来町、信夫町等十七ヶ町内よりの浄財の拠出に依り、御堂を建立。その後も数回の改築を重ねたとはいえ、以来230年間松原寺の歴史を御見守りくださっている。
尚、当松原寺観音様は米沢三十三観音 三十一番札所として、地域の人々の信仰パワースポットとなっています。